2011/02/17

風と光と四十の私と


 好きな作家を聞かれたら坂口安吾と答えている。

 高校時代に「堕落論」を読んで以来、あこがれの存在だ。僕は文学少年ではなかったが、坂口安吾だけは全集を買った。
 大学生のとき京都市伏見区に住んだのは、安吾が長編「吹雪物語」を書くときに伏見に住んでいた、との話が影響している。20代のころは安吾を意識して丸眼鏡をかけていたこともある。

 困難から逃げられない状況になると、堕落論の一節である「人は正しく墜ちる道を墜ちきることが必要だ」という言葉が勝手に脳裏に浮かんでくる。
 それぐらい作品中の言葉は僕に焼き付いているのだが、正直に言うと、ここ数年は作品を読み返すこともなく、作家自身のことはしばらく意識しなくなっていた。

 2日前、ある取材のために新潟入りし、久しぶりに思い出した。新潟は、坂口安吾が生まれ育った土地だ。生家の跡地近くにある記念施設「安吾 風の館」の存在を地図で知り、気がついた。

 僕は昨秋に東京の新聞社を辞め、いまは札幌を拠点に時折取材旅行のような形で各地に足を運んでいる。新潟に来たのはこの一環だ。もし新聞社にいれば今も東京で仕事をしているはず。ここで安吾を思い出したことになんだか宿命めいたものを感じ、空き時間に施設を訪ねることにした。

 訪問は結局、新潟最終日の今日になってしまった。朝、施設の公式サイトを読んでいるうち、説明文中の「2月17日」という文字が目にとまった。今日だ。なぜ、今日の日付が載っているのかわからないまま読み進めた。

 1955年2月17日。56年前の、今日。
 今日は、坂口安吾が亡くなった日だったのだ。

 昼前にバスで行ってみると施設はこぢんまりしており、静かだった。僕以外の客は1人だけ。市内中心部から離れた寺に安吾のお墓があり、ファンや関係者はそこに集うらしい。
 時間の関係で墓参はあきらめ、肌寒い展示室で、壁に貼ってある年表を読む。

 安吾は24歳から東京の大田区蒲田に住み始めている。その後転々とするのだが、家族は長く蒲田にいたようだ。僕はつい半年前まで、大田区に住んでいた。住所には「大森」という地名が入っていた。蒲田のすぐお隣である。

 安吾が代表作「堕落論」「白痴」を発表したのは39歳。誕生日が来れば40歳になる年で、今の僕と同じだ。僕も今、始めようとしていることがある。

 単なる偶然なのはわかっている。だが、興奮を禁じ得ないまま、氏名入りの原稿用紙や写真パネルを眺めて歩いた。

 安吾の有名作の1つに「風と光と二十の私と」という随筆がある。心の病を患って薬物を常用し、周囲ともトラブル続きで苦しい人生を送った安吾が、唯一例外的に平穏だった若い時期を回想する内容だ。
 施設をあとにするころ、急に読み返したくなって、夕方に新潟駅前の書店で文庫本を買った。覚えていなかったのだがこんな一節があった。

 「人の命令に服することのできない生れつきの私は、自分に命令してそれに服するよろこびが強いのかも知れない」

 僕も人に命令されるのが嫌いな人間だ。フリーランス志向なのも、何らかの影響を受けていたのだろうかと思えてくる。

 勝手な妄想であることを承知で言えば、坂口安吾の魂が、今のこのタイミングで、僕に「がんばれ」と言ってくれているような気がしたのだ。
 いや、安吾のことだ。「がんばれ」ではなく「苦しめ」かもしれないけれど。

 

1 comment:

  1. ХОККУ № 89

    Далеко, далеко в зимних снегах
    Живёт Синдзи Ёсимура
    Настоящий японец.

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