2011/02/09

ゴミ出しの一風景

 朝8時半。マンションのすぐ前にあるゴミ捨て場に、不燃物を捨てに出た。
 晴天とはいえ、気温はマイナス4度。部屋着に薄いダウンジャケットを羽織っただけではやはり寒く、定位置にゴミ袋を置いて足早にマンション玄関に戻った。

 出入り口はいわゆるフロントオートロックだ。ドアを開けるためマンションの鍵を差し込もうとしたら、なぜか鍵穴に入らない。手元を見たら、自分が持っていたのは車の鍵だった。

 やっちまった。マンションの鍵と間違えて車の鍵だけ持って出てきてしまった。
 さっき妻子を送り出したばかりで、部屋には誰もいない。大家さんに連絡しようにも携帯電話も持っていない。
 まあいい。朝だし、ほかの部屋の住民が出てくるだろう。誰かがドア開けたときに笑顔で通ればいい。そう考え、立って待つことにした。

 1分。3分。5分。
 隣の道で、駅やバス停に向かう人たちの、雪を踏む音がかすかに響いている。
 おかしい。このマンションは少なくとも10世帯ぐらいは住んでいるはずだが、人の気配がしない。
 ガラス越しにマンションのホール内を見る。1階に止まっているエレベーターの照明が省エネ機能で暗くなっている。

 ん? お? 下っ腹が急速に重くなってきた、
 便意である。元気一杯に押し寄せてきた。
 おおっ、んんっ。
 ガラスドアに、誰もいない空間で角度30度のお辞儀をしてプルプル振動している男が映っている。自分だった。

 10分。15分。
 だんだん、足先が冷えてくる。自分が立っているのは玄関前の、横に郵便受けが並んでいるような空間で、一応ガラス扉1枚で外気とは隔たっているのだがやはり零度近いはずだ。
 厳しい。そろそろ奥の手を使うか。
 実は最初から思いついていたのだ。インターホンでお隣の部屋の人に事情を話して、ロックを解除してもらう方法。
 正直近所付き合いと言うほどの交流はないが、引っ越したときにご挨拶には伺っているし、その後も何度も駐車場などで顔を合わせている。乳児がいたはずなので、おそらく誰か大人が部屋にいらっしゃるだろう。

 お隣の部屋番号を押した。
 しばらく呼び出し音が響き、スピーカーから「カチャッ」と音が聞こえた。ああ助かった。
 だが、音の続きはなかった。呼び出し時間が長くなり、無反応だから自動的に回線が切れただけだった。

 そのときである。

 おおっ。ぬおおおっ。
 便意の第2波が襲いかかってきた。さっきと桁違いに勢いを増している。大腸で実力をつけてきた野郎どもが勝負をかけてきた。
 んんんんんんっ。
 もはや、この場で用を足すという選択肢を検討せざるを得ない状況になってきた。マンションの玄関前に人糞が落ちていたらマズいだろうか? いや、人糞ではなく犬の糞だと言い張ればいいのではないか? しかし、このあたりで犬を飼っている世帯を見たことがない...。

 名案が浮かんだ。
 外に出て雪の上で素早く用を足すのだ。そして、周囲の雪をかけて隠してしまう。こうすれば、人のか犬のか判別は難しいはず。完全犯罪だ。

 しかし。しかしである。
 用を足した後、どうやって、自分の尻を拭けば良いのだろうか? 北海道の冬は、木の葉っぱなどない。雪ばかりなのだ。捨ててあるゴミ袋をあされば紙が見つかるかもしれない。だが、今日は不燃物の収集日だからな...金属で尻を拭くのも人類の経験として悪くないかもしれないが、冷たいだろうし...。
 解決策を思いつかないまま下腹の張りに耐える。ガラスドアに、60度のお辞儀をしたまま固まった男が映っている。

 ...そうだ。自分は車の鍵を持っているではないか。
 車でまずは近所のガソリンスタンドに寄ってトイレを借り、そのあと妻の職場に押しかけて、妻が持っている部屋の鍵を借りるのだ。

 すでにゴミ捨てから30分強が過ぎていた。いっこうに、人の出入りする気配はない。このまま待っていても当分変化はないだろう、と確信めいたものが芽生えてきた。ならば、早く次の行動に移った方がよい。

 前屈みになりながら駐車場に向かう。その途中で、お隣の部屋の車が停まっているのに気付いた。
 お隣さん、実は部屋にいるのではなかろうか。乳児の世話でてんてこ舞いになってるときにインターホンを押してしまい、それで応答してもらえなかったのじゃないか。
 もう一度だけインターホン押してみよう。それで出なければあきらめよう。

 引き返して、入り口ドアの前に着いた瞬間、ごくたまに見かける20代後半ぐらいの女性が、今から仕事に出かける雰囲気で向こう側に立っていた。
 ブーンと音がして、いつものようにドアが開いた。

 例えて言うなら「外出して今戻ってきたところです、ちょうどタイミングが同じになっちゃいましたね、えへへ」みたいな顔で会釈して、建物に入った。

 フロントオートロックのマンション、気をつけましょう。

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