山下家(やましたや)の話。前回からの続き。
ドアを開けると、間取りがくっきりとL字を描いている小部屋だった。窓が小さく、どことなく壁がくすんでいるが、その程度のことは覚悟しているのである。
洋室である。入り口から見て左側の壁に、立ち仕事用の作業カウンターのような天板が設置されていて、ここにテレビや内線電話、ポットなどが乗っている。
テレビのすぐ横に施設案内のバインダーがあったので見ると「チェックイン 15:00~」の下に「チャックアウト 11:00まで」と、わざとではないかと思うような間違いが目に入る。
カウンターの下には小型冷蔵庫と金庫が並ぶ。窓のそばにベッド。あとは、クローゼットとユニットバスというつくりだ。
持ってきたノートPCで若干作業したいので、ネットのLANが使えればいいのだが、これは予約の段階で設備がないことを知らされていた。
ま、いいんじゃね?と思った。激安シングルルームで、快適に過ごしたいなんて思う方が間違い。ネットにつながらなくてもとりあえずPCのキーボードを叩ければ十分だ。
そう思った瞬間に気がついた。
座る場所がないのである。
部屋のどこにもイスがない。
ベッドに座るにも、カウンターと離れているので作業は無理。イスのない洋室に通されたのは生まれて初めてかもしれない。
さあてどうしたものか。
この高すぎる天板にPCを置いて、立ってキーを打つか。うーん厳しい。和室やオンドルじゃないので床に座り込むのは嫌。ベッドに座って膝上にPCを載せる手もあるが、ちょっと不安定すぎて非現実的だ。
この部屋で一体どうやって、普通の体勢でキーボードを叩くか。難問である。
難易度が高すぎる。あっさり降参してフロントに電話した。
「作業したいのでイスと机のある部屋に換えてもらえないか」
「あいにくシングルは満室となっております」
「簡易のイス・机セットがあれば借りたい」
「可能かどうか、調べてみます」
「最低限イスだけでもいい。天板の位置が高いから、高さのあるやつ」
「調べますのでお部屋でお待ちください」
数分後、薄緑色のイスがやってきた。確かに普通より少し高さがあるかもしれない。昭和中期の喫茶店にでもありそうな、座面が丸っこいクッションで低い背もたれのついた、1本足のイスである。
重そうに運んできた和服の女性従業員は、どことなく「面倒な客につかまっちゃった」というオーラを漂わせていた。己の不運を呪っている風でもあった。
「この旅館、ほかの部屋なら机イスあるの?」とこの女性に聞くと、「別の階にはあったかもしれませんが...どうだったかな...。うちはビジネス仕様じゃないので。あとは和室の大きな部屋になっちゃうんですよ」との答えだった。
従業員が去ってから、あらためて座ってみた。これでも天板が少し高いが、キーを打つぐらいやれなくはない。
ひとまず解決を見たわけだが、フロントで渡されたフロアマップを見て、やはり、と納得した。
ここ、少なくとも開業当初は一般の客室じゃなかったはずだ。
物置か、あるいはツアー添乗員や運転手用の部屋だったのだろう。場所といい部屋の狭さといい、団体客用の部屋と違いすぎる。
事前に聞いていた話では、ここ山下家は、かつては高級な旅館だったそうだ。しかし景気低迷もあって経営が行き詰まり、2年前に、東京・お台場の大江戸温泉物語の系列に入ったとのこと。
大江戸温泉物語は僕自身日経時代に何度も取材したことがあるのだが、周知の通り、カジュアルな施設である。安く気軽に、仲間と楽しく、というノリだ。
加賀・山代温泉の老舗旅館もそのノリに変わったのだ。
新しい経営者が、それまで客室ではなかった小部屋を、少しでも売り上げを生むシングルルームとして使うことにしたのだろう。
しかし、山代温泉に初めて来た県外客を、1人だからといってこの部屋に通していいのか? 安いから問題ないだろうと考えたのか?
そんなことを思いながら、ユニットバス内の洗面に向かったら、歯磨きセットが置かれていないことに気がついた。
ひょっとして有料で、チェックイン時に買う仕組みだったのだろうか。僕がうっかりしていたのかもしれない。
食事のついでにフロントに寄り「部屋に歯ブラシのセットがないんだけど」と言ったら、男性が「え、なかったですか?すみません」とセットを差し出してきた。
なにをかいわんや、である。
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