2011/03/16

猫の所在

 おとといの出来事である。
 そう、ホワイトデーであった。

 たまたまこの日の午後、用事があって1人で札幌市中心街に来た。妻に、なんらかの糖分を買って帰らねば家庭内に暗雲がたれこめること確実である。
 札幌・地下鉄大通駅の手前にある百貨店、丸井今井の地下に立ち寄った。

 とたんに、赤だの黄だの銀だの、見慣れない色が視界に飛び込んでくる。チョコレート菓子の試食を呼びかける女性販売員の声が響き、大学生風から高齢者まで、そこかしこで男たちが包装箱を抱えているではないか。
 もちろん東北関東の大震災で祝い事を自粛するムードはあるが、札幌は直接の影響は少ない。やはり商戦の熱気はあった。

 和・洋の菓子が並ぶフロアを歩きながら、すぐに自分の出遅れを悟った。どのコーナーを攻めるのか考えていなかったのだ。作戦なしに戦場に飛び込んでしまったのだ。
 クッキーか、チョコか、クリーム系か。変化球で和菓子という選択肢もあろう。獲物を決めずに狩りに来たようなものだ。

 ふと左側を見ると、青とも緑ともつかない外装ビニールに包まれた、4センチ四方ぐらいのクッキーが並んでいる。クッキーの中にはチョコレートが薄く挟まれている。いいかもしれない。
 だが、外装に記されたマークに見覚えがある。「白い恋人」だった。家庭不和の原因になりかねない。

 眉間にしわを寄せながら人混みをかき分け、フロアをぐるぐる偵察して1分ほどたったとき、陳列用冷蔵ケース内に可愛らしい猫のデコレーションケーキを発見した。猫である。にらみつけたが反応がない。

 ケーキの猫の横にはこれまた漫画チックなネズミ型ケーキだとか、城っぽいのとか、まあメルヘンチックな空間がそこにあった。猫型は残り1個だけなのに対し、ほかは何個も並んでいる、どうやら猫は人気商品らしい。

 賑わいの中、冷蔵ケースの前を3歩進んで3歩下がる感じで、相変わらず視線を合わせようとしないケーキの猫を威嚇しながら、考えた。そして決心した。
 猫とネズミと1個ずつ買おう。「トムとジェリー」的なノリでいいんじゃないの?

 胸の高鳴りを抑え、ついに左足を踏み込み、ケースの後ろに立つ女性販売員との距離を一気に詰めんとする自分。
 ふいに、右斜め後ろにいた中年女性が「すみません」と声をかけてきた。こんなときに何だろう。

 なぜだか、カウンター越しに女性販売員が「はーい」と返事をするのである。その返事に合わせて、中年女性が「その猫のケーキ1つください」と言った。販売員が「はい、猫のを1つですねえ」と返した。スムーズなやりとりであった。
 振り返ると、中年女性はにっこりしていた。ただ、その笑顔はこちらではなく、まっすぐ猫に向けられていた。

 踏み込んでいた左足を何事もなかったかのように戻し、数秒立ちつくした。このメルヘンワールドの中で、圧倒的に猫の存在感が際だっていたのだ。ネズミ2匹で妥協するか。ネズミと城では意味がわからない。

 しかし人生には、考えていても始まらないこともある。まず人に聞き、情報収集してから考える方が有効なこともある。

 猫をケース裏側から取り出そうとしている販売員を横目に、赤いメガネをかけた別の女性販売員に思い切って聞いてみた。
 「猫、もういなくなっちゃった? 奥にいたりしません?」

 きょとんとした赤メガネは冷蔵ケースに視線を移して、瞬間的に苦々しそうな表情を浮かべてから笑顔に戻り、
 「見て参りますので~」
 と下がっていった。

 右横では、あの猫が着々と箱に詰められていく。中年女性は財布を握りしめ、ワクワク顔で待っている。
 すぐに赤メガネが戻ってきて言った。
 「ご用意ございますぅ。何個にしましょうか」

 聞いたかいがあったというものだ。
 「1匹。ネズミも1匹ね」

 帰宅し、夜、妻に2つのケーキを見せた。
 もちろん店での話はしていない。好きな方を食べてくれと言ったら、妻は「かわいいー」と言ってネズミのケーキを食べた。
 

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